この記事には異論反論がいっぱいある人もいるだろう。
でも、こんな考え方もあると、まず「一旦は心に受け止めていただいて」から、反論をいただけると幸いである。
自分の父は中卒であるが、読書家であって忙しい仕事の合間をぬって老荘とか、史記などの中国の古典などをよく読んでいた。
その影響もあって、自分も本を読むようになったわけである。
ところがこの父は血の気が多く、激昂すると長靴をはいたまま子供を蹴ったりしたものだ。
しかしながら自分はこの父が決して嫌いではなく、今は尊敬しているのである。
まだ自分が独身だった頃に、父と子供の教育について議論をしたことがある。
20歳過ぎの頃の自分は対話主義者だった。
話せば分かるっていう考えである。
ところが、父は違うのである。
売春の是非の話になった時に、自分の見解として、
「何で、売春をしてはいけないのか、わからないので、売春をするなってことを子供に強制できない。」
と言ったら、
「売春をしちゃいけないっていうのは理屈じゃないんだ。じゃあ、お前に将来子供ができてもそう思うのか?」
「そう思うかもしれない。」
「本当にそうならお前は親にならないほうがいい。」
と言われたのである。
「いいか、売春を子供するってことになったら、そんなもんはぶん殴ってでもやめさせればいいんだ。理屈じゃないんだ」
この時の自分にはこの言葉の意味が正直よく分からなかった。
でも今の自分にはこれが非常によく分かる。
人としての倫理の根本とは何か?
「殺してはならない」
という大きな人倫の根本の命題がある。
しかしながら、では「何故殺してはいけないのか」となると非常に難しい。
自分が殺されたら嫌だと思うように、他人も嫌だと思うからだ。
とかそんな説明もあるが、
- 戦争の時は何故他の人を殺してもよいのか?
- 死刑囚を殺すのは何故か?
- 胎児を中絶で殺してもいいのは何故か?
- 牛や豚は殺して食べてもいいのに何故人間を殺してはいけないのか?
これらにきちんと答えられる人がどれほどいるだろう。
子供が、もし、人を殺してみたいから外人部隊に入りたい。それなら、法に触れないからいいだろう。って言ったら、どうやってこれを止めればいいのか?議論で打ち負かすことができればいいが、逆に打ち負かされる場合も大いにありうる。
売春も同様である。何故悪いのだ。っていう議論になると、
- フランスでは売春は合法だ
- 売春しても誰も困らない
- ちゃんと避妊もしてるし、病気にならないように気をつけている
などという反論がありうる。これを打ち負かすのは容易ではない。議論をして、もし、親が言い負かされてしまったら、子供のほうが正しいということになってしまう。
どのような問題でも、何で、何で、って理由を突き詰めていかれると、最終的には、必ず議論に負けてしまう。守る側は弱いのだ。
これらを子供と議論をしてはならないと思う。絶対負けることは許されないからであって、負けてしまったとしても正しいことは正しい。
最初から結論は決まっているが、その結論を論証することは難しいので議論をしてはならないのである。
人倫の根本というものには合理的な根拠というものはない。
それを何故犯してはならないのか?
自分の良心を裏切ることになるからだというのが自分の考えである。
まず、そのようなことを子供が言ったならば、まっすぐジッと目を見るべきだろう。自分の良心にわずかばかりの呵責もないのか?それを無言で問うべきである。
それでも、子供があえて自分の良心に反してこれを強弁して行おうとするならば、その時は鉄槌を下すのは已む無しと思うわけである。
この論はあくまで著者の見解であり、親子スタイル全体の意見を代表するものではありません
文責 田村義隆
※当サイトのコラムはスタッフ個々の私的な見解及び文責にて公開されております。
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人間として、大人として、親として、”だめなものはだめ”、という毅然とした立場は必要だと、私もいつも思います。
それは例えば国や宗教が違えば、違う考え方も世の中には存在するかも知れませんが、自分の立ち位置として、子供には”だめなものはだめ”を徹底すべきだと思います。
折に触れて子供に言い聞かせたり、時には強権を発動するもの親の務めだと、私も考えています。
三浦しをんさんのエッセイに「親は理不尽の権化だ」と書いてあって、確かに!と思いました。これはもっとおもしろいことについてそう書いてあったのですが(「母がこうと決めたことは絶対だ」のような感じで)、あらゆる意味で親は理不尽であっていいと私も思っています。
最近の若者がすぐ「キレ」たりするのは、この「理不尽さ」=挫折を知らないからだと何かで読んでなるほどな、と思いました。
今まで、何でも自分の思う通りになってきたのに、ある日突然そういかなくなるから、それに対応できない。
昔はそもそも親や世の中が理不尽だったので、ある程度「免疫」があったのに、今の若者にはそれがない。大人に反抗した尾崎豊の歌が今の若者には通じないという記事も目にしましたが、これもここに通じるのかな、という気がします。
そういうわけで、我が家は6歳、4歳に向かって「ダメなものはダメ」で接しています。周りから「昭和のしつけだ」と言われていますが。
親がダメだと思うことはダメ、イヤだと思うことはイヤとはっきり伝えるべきだと思います。
実際、あやしげな教団に入ってしまったり、自らAV女優の道を選んでしまったり、出会い系を渡り歩いていたり、娘たちからちょっと話を聞く限りでもそれほど遠くないところにそんな子がいたりします。「私がそうなったらどうする?」と娘によく聞かれますが、「首に縄つけて繋いでおく~」と言ってます。
究極においてはそれこそ命がけで理不尽になるでしょうね。
でもそれ以前のところで、親とのコミュニケーションが良好な場合、子どものほうがそういった危険な思想や「お金」さえもらえれば何でもするという発想を持ちにくいのではないかと思います。
いろいろ好奇心が強くアクティブな子どもは、ちょっと大人がダメと言う世界を覗いて見るかもしれない、でもしっつかりとした倫理観や人を愛する気持ち、まわりを大切に思う気持ちが強ければ、自ら「選ばない」と思います。
理不尽に厳しく接したとしても、優しく理解を示しながら話したとしても、そこに親としての真剣さと愛が感じられれば大きくはズレないと思います。
皆様コメントありがとうございます
りこさん>宗教とかの問題はすごく難しいなって思います。
子供が宗教に入ってしまうのではなくて、りこさんがおっしゃっているのとは逆のケースもありますね。
家が特定の宗教の信者で子供が嫌がった場合、それを親が強権で無理やり入れてしまうというケース。これはどう考えるべきかはちょっとまだ答えるだけの準備がないので、なんともいえない感じです。
そのうち準備できたら書いてみたいとも思うのですが、こういう公の場で書くのは難しい話題ですね。
おはらさん>あらゆる意味で昔の親は理不尽だったっていうのはその通りだと思います。
昭和も始めの頃までは封建主義の残渣のようなものが残っていたと思います。制約が強ければ強いほどオリジナリティのある人格が作られるっていうことを亀井勝一郎とか、湯川秀樹(だったかなあ)とか色々な人が書いているのですが、それはそんな理由かもしれません。
そうそう、尾崎豊ですね。私、15の夜とか、よくカラオケで歌います。
尾崎豊の歌詞は、理不尽だけど、か弱い大人に反抗するというのがテーマですね。
大人がか弱いものとして描かれているのは、プロデューサーの須藤晃の影響みたいです。
おそらく、須藤晃なかりせば、尾崎豊の曲はあれほどまでに人々の心を打つ普遍性を持ち得なかったと思います。ちなみに須藤晃は私の大好きな故村下孝蔵のプロデュースもしていて、叙情的な音楽作りをされる方です。
・・・とはいっても、今は物分りのいい親ばっかりだからこういう反抗の気持ちって共感されないんだろうなあ。
リオさん>嫌なことを嫌だとはっきり伝えられないというのが問題なのでしょう。
子供のいうことをちゃんと聞きましょうといおう民主的な考え方は非常に結構なのだけど、聞くことと、要求を呑むことは別問題ですね。
そうそう、AVに出るは問題外ですが怪しげな宗教はすごく難しい問題をはらんでいると思います。
キリスト教だって最初は怪しい新興宗教だったわけです。親や家族より信仰を大切にしろっていってます。
仏教も最初釈迦が出家するときに、「そんなに出家したいなら、私を踏んでいきなさい」と妻に言われて釈迦は妻を踏んでいったそうです。
宗教はそういう家族より重きを置かれる概念でもありますが、この問題に対して同考えるべきかは私にはまだ準備不足で語ることが残念ながらできませんです。
田村さんやみなさんが書かれているように、おとなと子どもの関係のなかで「理不尽」は不可欠なものだと思います。
すべてのことを合理的に説明できるとは限らないわけですし、親(おとな)が、正しさの根拠をきちんと提示できないからといって、子どもが言っていることをすべて受け入れる必要はないですね。
ただ、「理不尽」の大切さを認めたうえで、個人的には正しさの根拠をあーでもない、こーでもない、と探究する過程は、子どもにとってもおとなにとっても重要だと思っています。
ダメなものはダメ、という親(おとな)としての意思表示を、子どもが受け入れるか拒絶するかは別として、なぜダメなのだろうかと考え、それを言葉にしようとする行為が子どもにとっては大切だからと考えるからです。
これはおとなにとっても同様で、子どもがぶつけてくる「(屁)理屈」にたいして、そんなものはこれっぽっちの理由にもならない、というふうに突き返し、高い壁として目の前に立ちはだかることで、子どもはさらなる考えと言葉を探そうとするからです。
逆に、親(おとな)の意思表明としての「理不尽」をそのまま受け入れてしまって、考えることや言葉にするプロセスを経験しないこども(同様のおとなも)のほうが、あるとき突然理不尽な「行為」にはしってしまうのではないか、という気もしています。
田村さんがおっしゃった「聞くことと、要求を呑むことは別問題」というのは、まさにそのとおりだと思います。
「理不尽」というのはおとなからこどもへの「正しさの意思表明」です。そこで、根源的な正しさを証明する必要はありません。その「理不尽」をつうじて、考え、言葉をやりとりすることこそが、子どもに「理不尽」な価値の本質を理解してもらう契機になるのだと思います。
最後に1つ。
「なぜダメなのか」を子どもに対して、おとなが説明するというのはたしかに難しいですね。
そこで、こういうふうにする手もあります。「なぜダメなの?」という問いに対して、「じゃあ、どうして良いと思うの?」というふうに“問い”として提示してあげるのです。
田村さんが書かれているように、「守る側」は弱いので、おとなが「守る」のではなく、子どもに「守らせる」というわけです。
まあ、まやかしといえばまやかしですが、こどもたちの“言葉”の力を鍛える意味もあって、僕はたまに使っています。
じょびさま>
ご丁寧なコメントありがとうございます。
理不尽なものとして子供に立ち向かうことが子供にとっての、言葉の鍛錬となるというのはそのとおりだと思います。
なるほど、制約の多い時代こそ個性のある人間が生まれるという言葉は実感として感じていたのですが、そう考えると納得がいきますね。
最後の問いとして「それがなぜいいか?」を説明させるというのは非常によいですね。真の知を追求するという姿勢を子供に教えると思います。まるでソクラテスみたいな感じですね。