ファミリーの1歩先には親子スタイル

親子スタイルって?
親子スタイルの7つの魔法
親子力アップは社会力アップ
親子スタイル流ワークバランス
親子スタイルギャラリー
メルマガー親子スタイル

飯田先生が語る「思春期のメディア、その魅惑と可能性」 飯田豊プロフィール

前編でお話ししたとおり、思春期の子どもたちを魅了するケータイやビデオゲームは「かたち」のあるモノであり、道具としての使い方、生活における付き合い方に自覚的になるということが、子どもたちに対するメディア・リテラシー教育の基本的なスタンスでした。それに対して、ユビキタスに関する要点というのは、ICチップが埋め込まれたひとつひとつの人工物の特性ではなく、みずからの個人情報をどのようにコントロールするかということであり、これまでとは違う非常に難しい問題をはらんでいるということでした。そしてユビキタスが本来、人がなるべく意識しないように設計された技術であり、そうであるからこそ便利なのだという特性も、これまでのメディアの延長線上に捉えにくいポイントです。ユビキタスについて意識的ないし自覚的になるというのは、どうにも矛盾しているわけです。

そもそもメディア・リテラシーは、メディアに媒介された情報を、送り手によって構成されたものとして批判的に受容すると同時に、自らの思想や意見、感じていることなどを、メディアを通じて能動的に表現するための素養というふうに定義されることが一般的で、もっと平たくいえば、メディアを「賢く」活用できる能力のことを表します。リテラシーという英語が、文字の読み書きができる力のことを意味するので、その延長として生み出された概念というわけです。

したがって、しばしば混同されてしまうのですが、ケータイの使用を規制する保護主義的な取り組みや、インターネット上のマナーやモラルといった道徳的な話は、メディア・リテラシーとゆるく関係することは間違いないのですが、ひとまず分けて考えましょうというのが基本的な考え方です。個人情報の漏洩を防いだり、開陳の範囲をコントロールしたりする情報セキュリティも、もちろん重要なことではあるのですが、メディア・リテラシーとは区別されてきた隣接領域といえます。

ところが、ユビキタス技術が普及した状況を想定してみると、それを積極的に「賢く」活用するということは、個人情報の自発的な提供が前提になるわけですから、かたちのある道具の使用に卓越するという話とはまったく別物です。もちろん自発的に情報を提供するというだけでなく、公共的な空間においては今後、否応なく個人の情報が取得されるという局面もますます増えてくるでしょう。情報セキュリティの整備とプライバシー保護が重要であることは言うまでもないのですが、サービスの享受者である僕たち自身がコントロールできる余地は極めて小さく、設計者や運用者の努力に一方的に委ねられます。

そうなってくると、メディア・リテラシー教育がこれまで前提としてきた、メディアを利用する個人の主体性や自律性といった理念が、かなりハードルが高いものになっていくという現実が想定できるわけです。まだまだ先の話のように聞こえるかもしれませんが、前回お話ししたように、まるで街の全体を包み込むように、人びとがネットワークを介したサービスを自動的に受け取る環境は、急速に整備されつつあります。海外には、監視技術に反対する市民運動や、商品のトレーサビリティに反対する不買運動などが盛んな国もありますが、日本では今のところ、社会科学や人文科学の内部の議論にとどまっているといえます。しかし近い将来、高等学校の情報科の授業などを皮切りとして、ユビキタスの問題を学校教育の中でどのように扱うか、具体的に考えなければならない時期がやってくるのではないかと考えています。


  

| | コメント(0)

 コメントする


画像の中に見える文字を入力してください。

最新記事


最近のコメント


過去の記事