「入」と「出」のバランスが取れていない日本の教育を見直すべきだ
プレジデント 2010年10.18号
基礎的な読み書きや計算能力の欠如を招いた教育の影響は、人格形成にも及んでいる。日本の教育が抱える本質的な問題に迫る。
流通科学大学学長 石井淳蔵=文
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若者の学力低下に歯止めがかからない。基礎的な読み書きや計算能力の欠如を招いた教育の影響は、人格形成にも及んでいる。日本の教育が抱える本質的な問題に迫る。
分数計算ができない大学生
今回から伊丹敬之教授に代わり、この連載コラムを担当します。流通やマーケティング研究を専門としていますが、理論より新しいビジネスの動きを現場で探るのに関心があります。また最近では仕事柄、ビジネスと教育の狭間で教育現場人として活動しています。というわけで、本コラムでも、流通やマーケティングの現場と、ビジネスと教育の狭間の話が中心になります。
さて、今回は後者の話で、「若者の〈学力〉の貧困」の問題を取り上げる。この問題、いろいろな調査結果も出ており、それなりの対処がなされている。だが、その解決は思うほど簡単ではないように思う。どうしてか。それを考えてみよう。
子供たちの基礎〈学力〉が落ちていると言われる中、「ゆとり教育」の見直しが行われた。ゆとり教育とは、学習内容および授業時間数の削減、完全学校週5日制の実施、総合的な学習時間の新設、絶対評価の導入を骨子とするもの。それに対して、新たに誕生した教育指針では、授業日数および算数・数学、理科、外国語の授業時数の増加が図られ、どちらかというと昔ながらの詰め込み型の色彩が濃い。
それに合わせて、文部科学省では、2007年度から「全国学力・学習状況調査」を実施した。その結果が公表され、各地域においても〈学力〉に対する関心が高まった。私が住む大阪府の橋下徹知事は、府下各校の〈学力〉テストの不振に業を煮やしたか、「100マス計算」「漢字の反復学習」といった基礎〈学力〉向上に向けた学習方法を府内各校に取り入れた。その成果は、府県別〈学力〉順位が少しずつ上昇するという形で表れている。
こうして、近時、わが国の義務教育においては、〈基礎学力の見直しと強化〉が喫緊の課題と見なされるに至っている。その流れは、義務教育にとどまらず、大学という高等教育機関や社会の職場にも及ぶ。
「最近の大学生は、漢字を書けないどころか読めない。分数計算ができない」といった話題が大学教員の方からよく出てくる。「ゆとり教育のせいだ」という人もいれば、「豊かな社会の必然的な結果だ」という人もいる。理由はよくわからない。だが、現実に学生のそうした〈学力〉不足は大学教育における切実な課題となり、それへの対処に学習指導センターなど、新たに機能を学内に設ける大学が増えている。
学力に神経を尖らせるのは企業もそうだ。とくに新入社員の採用では、〈学力〉チェックを必須の要件とするようになった。そのため、「能力検査(基礎・実務基礎・事務)」や「性格検査」等の採用テストが、SPI(総合適性検査 Synthetic Personality Inventory)を筆頭に就職試験において大流行。
それらの筆記テストの役目は、学生の基礎能力(学力)を測ること。テストの出題傾向を編集した本には、それこそ昔懐かしい鶴亀算とか流水算が並ぶ。漢字テストや四文字熟語テストもある。この筆記テストは、企業の採用プロセスの第一ステップとなる。たとえば、100人足らずの新卒者募集に、1万人を超える就活学生のエントリーがあるのが現状。それに対して、このテストでふるいにかけられて、7割ほどの学生が足切りされるといわれる。
「学力(の貧困)」がブームになる現代日本
テストによる足切りが行われるので、就活学生も守りに出る。1人で100社以上もエントリーをかける。そうしてエントリーが増えて、企業はまたこのテストを使って足切りに励む。事態は徐々にスパイラルアップする。
学生はエントリー数を増やすとともに、テストの準備をする。その結果、その種のテキストや問題集が本屋さんに山のように積まれることになる。もちろん、面倒見のいい大学は、学生任せにはしない。それ用の問題集や解答集を学内のしかるべきところに揃え、そのための講習も開く。正課の科目に組み込む大学も出てきている。
以上が、若者の「〈学力〉の貧困」問題が、義務教育から大学や企業の採用にまで及んでいる様子だが、その流れは教育界にとどまらない。皆さんのもっと身近なところまで及んでいる。テレビ番組やゲームソフトや出版の世界も、そうだ。小学校で学ぶ国語や算数の問題を出し、それに珍答する若いタレントをダシにして、視聴者の笑いを取るテレビ番組は人気がある。その笑いの中に、「小学校で学ぶようなことも知らない若者が大勢いる」と思う人が増えていく。
まさに「学力(の貧困)」が、現代のテーマとなりブームにもなっている。その中で、「現代の若者には、もっと基礎〈学力〉が必要」という厳しい視線が生まれる。だがしかし、そのブームの中で、いっそう深刻な事態が進んでいる。それはほかでもない、「人前でしゃべらない若者」や「自分から、目の前の現実に積極的にかかわろうとしない若者」が少なくない数いることだ。大学教員は、「とにかくそうした学生は多いし増えている」という。
そうした若者を生み出した理由は様々だ。教育はもちろんその責任を免れない。大量の知識を覚えさせ、そしてそれらの記憶をできるかぎり正確に再現するというやり方は、わが国の伝統的な教育手法だが、とてもではないがいい影響を与えたとは思えない。若者たちは、小さい頃から知識の詰め込みとその確認のための試験というパターンに馴染んだ。
その人の持っている潜在力を花開かせるのが〈教育〉だとすると、このやり方は教育とはいえない。〈訓練〉だ。そして、この〈訓練〉を小さい頃から受けて習熟度を上げた者が、優れた人間として評価を受ける仕組みになっている。
訓練だから、「何のために、この知識を学ぶのか」という説明はない。それを教師に尋ねても、「とにかくおぼえておけ」「いつか役に立つ」「少なくとも、進学するときには不可欠だ」と、理由にもならない理由で説明されるのがおちだ。
教育における「入」と「出」のバランスが取れていないのだ。教育における「入」とは、頭の中に知識を充填する局面。
「出」は逆に、持っている知識を使う局面。教育においては、この入と出のバランスが取れていないといけないのだが、とくに日本の教育は、小学校から大学まで、知識をどう使うかではなく、どう入れ込むかという入偏重。
そうした入偏重、〈訓練〉中心の副作用は小さくない。第一に、自ら何かを学ぶという経験がない。経験がないから、学ぼうとする意欲がそもそも生まれない。第二に、問題に対して独自の答えを探す気がない。答えはすでにどこかにあって、誰かが知っているはずという受け身の意識が強い。答え探しの、間違いや失敗を恐れる。最後に、直面する複雑な現実から、解くべき「問題」をつくり出す力が失われる。問題の背後には必ず答えがあって、それを正確に再現することを何度も何度も訓練されると、その力を失うのも仕方ない。「しゃべらない」「現実にかかわらない」若者は、そうした副作用の表れではないだろうか。
「訓練で、〈学力〉の貧困をなくす」というのは、わかりやすい施策だ。訓練によって、確かにいわれるところの〈学力〉スコアは上がるだろう。だが、落とし穴もある。
訓練は、その目論見とは異なり、「学ぶ意欲の乏しい」「自分独自の答えを探そうとしない」「失敗を恐れる」、そして「現実を切り開く力を喪失した」若者、つまり「しゃべらない」若者をつくり出してしまうリスクを呼び込む。〈学力〉スコアの上昇と引き換えに、そうしたリスクが現実のものになってはたまらない。そこに大きなジレンマがある。その点については、機会を改めたい。
私のよく知っている会社にはいわゆる一流の大学といわれるところの卒業生がたくさんいる。たしかによく訓練されている人たちだと思うし、組織の歯車としては自主性や独創性は多くの場合、必要ないのかもしれない。しかし、この記事に書かれている「しゃべらない若者」および「しゃべらない中高年」の集団になっているのは否めない事実であろうと思う。組織の中で生き抜いていく処世術は必要だけれども、「しゃべれない人間」であることがいいことであるとは思わない。まだ、これから未来のある若者には自分がどういう人間を目指すべきかを考えてみてほしいと思う。